「特別支援」ではなく、必要な配慮をあたりまえに
「発達障害」が一般的に知られるようになり、「特別支援教育」が広がりました。
はたしてそれは、よかったのでしょうか。
理解されることで、「なんでできないの!」と責められなくなったのは、よかったと思います。
一方で、気になるところがあるとすぐ、「特別支援教育へ」とつなげられるのを、「追い出される」ように感じている人もいます。
たしかに、ちょっとでも気になるところがあると、通常学級から排除される、という流れになっていっていないかと危惧します。
子どもたちが出ていく社会は1つです。
「フツウじゃない」と分けて「特別な支援」をするのではなく、「フツウ」の枠をもっと広げ、包摂できるようにするべきでは?
その中で、「すべて」の子どもが、必要な配慮を受けられるようにしていくべきでは?
書くことが苦手だったら代替方法をとる。
気が散りやすかったら環境を調整する。
集中することが苦手だったら一度に取り組む量を加減する。
など、特性に合わせて「配慮」するのは、あたりまえであってほしい。視力を補うメガネと同じように。
「ボクはフツウじゃないんだ。だから人格をかえなくちゃいけないんだ」。
体験にきたお子さんが暗い表情でいった言葉です。どこで、そんな風に思わされたのでしょう。
「『フツウ』なんて、ないんだよ。みんな『トクベツ』。その『トクベツ』が大事なんだよ。人格はかえてほしくない。あなたらしい力を発揮していってほしい」
のびーくでは、そう伝えました。
教育の目的は、「フツウ」に近づくことではなく、社会の中で周囲と関わりながら、自分らしく生きていく力をつけること。
私は、そう考えます。
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